人の想いは 決して
死をもって終わるわけではない
皆さん、いつも、雅の遊び字ギャラリーにお越しいただきまして、ありがとうございます。
今日は、皆さんにお願いしたいことがございます。
どうか、今日だけはお願いをさせてください。
5月3日は、私の結婚記念日でした。
亡き夫を想い、そして、愛する我が子達を想い、
【大切な人を亡くされたあなたへ】という文章を書きました。
これは、私が、夫を亡くした後、間違ってしまったことをテーマに綴っています。
そして、もう誰一人として、私と同じ経験をしてほしくないという、心からの願いを込めています。
人は生まれてくると、必ず、いつかは死が訪れます。
この避けられない悲しい現実に直面した時、皆さんが、そして、皆さんの大切な方が、私と同じ苦しみを決して味わってほしくありません。
長い文章ですので、ご迷惑であることは重々承知しております。
それでも、少しずつで結構ですので、是非ご高覧いただけませんでしょうか。
そして、皆さんの大切な方に、私の想いをお伝えいただけませんでしょうか。
このホームページにお越しいただく方は、ご縁のある方と思っております。
そして、私にとってとても大切な方々です。
もし、皆さんが、残念ながら悲しい現実に直面された時、「雅が何か言ってたなぁ」と思い出していただければ、心から幸いに存じます。
それでは、始めさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
大切な人を亡くされたあなたへ
お父さん、お母さんを亡くした子ども達。
子どもさんを亡くされた、お父さん、お母さん。
かけがえのないご家族、愛する人、大切な友人を亡くされたあなた。
悲しいですね。
とても辛いですね。
私も夫を亡くし、我が子達は、父親を亡くしました。
病気、事故、自死により、悲しい別れは訪れますが、今は、新型コロナウイルスという、恐ろしい病気が、世界中の多くの人から、突然大切な人の命を奪っています。
戦争を知らない時代に生まれた私は、とても幸せです。
祖父が、沖縄で戦死をした話を、子どもの頃から聞かされていましたので、祖母や父が、祖父を送り出した時の悲しみや、味わった苦しみを思うと、自分には到底置き換えることができず、胸が塞がる思いです。
そして、遺骨も戻らない無情な現実、受け入れがたい死を、受け入れて生きていくしかなかった、戦争による遺族の絶望感は、現代に生きる私には、想像を絶します。
そして今、新型コロナウイルスという病気は、突然大切な人の命を奪い、最後のお別れさえできないという、理不尽極まりない現実を、否応なしに突きつけてきます。
まるで、世界中に戦争が起きているようです。
命の危険に晒されながらも、全力で尽くしてくださる、多くの医療従事者の方が亡くなられ、子どもが親を失っています。
どんなに元気であっても、誰も明日の命の保証がないという、今の非現実的な現実に震えるばかりです。
悲しみの深さは、立場や状況により、人それぞれ違いますが、それでも私は、こう考えます。
【死に逝く者の想い、残された者の想い、そして、人の想いは、決して死をもって終わるわけではない】
と、そして、絶望的な悲しみを経験した後には、分かれ道が待っているようにも思います。
一つは、自分もこんなに辛い思いをしたので、人も不幸になればいいという考え方。
もう一つは、自分がこんな辛い思いをして、人の心の痛みが分るようになったからこそ、人には優しくしてあげようという考え方です。
我が子達には、是非後者であってほしいと、心から願ってやみません。
勿論どう考えようと自由なのですが、絶望する悲しみが、もし宿命ならば、前者は、たとえ一時の満足があっても、心の片隅に、虚しさと罪悪感の一粒の小さな種を蒔き、さらに絶望の中で生きていかなければならない可能性のある、唯々辛い思いをしただけで、学ぶことのない、勿体ない考え方の選択に思えてなりません。
色々な理由で、愛する人を亡くした方が、同じ境遇の人を助ける活動をされている映像を見る度、ご自身もどれ程辛い中での活動かと思うと、尊敬し、感動し、そして、きっと私が言うところの後者である、人の心の痛みが分るからこそ、人に優しくできる方、そして、強い信念をもって、人様のため、何より自分を鼓舞しておられるのだろうと思います。
私は、夫を亡くしてから、30年近い年月が過ぎました。
ですが、どんなに年月が過ぎたとしても、悲しみが完全に消え去るわけではありません。
それでも、人の不幸を願いながら生きてきたわけではありませんので、心は穏やかで、そして、辛い経験をしたことで、確実に強くなりました。
でも、私には間違っていたことがありました。
夫が亡くなり、乳飲み子を抱えて、生きていかなければならなかったので、自分の心、自分の体を、自分自身でどこかに捨ててしまい、大切にできませんでした。
その結果、数々の病気をし、何度も手術もし、二つの難病にまで罹患してしまい、その多くは、極度のストレスからくる病気で、自分で自分の体を、この上なく傷つけていると言われました。
辛い治療もしました。
思い返せば、葬儀以降の一年間、本当は悲しいはずなのに、一度も泣いていません。
私は 子どもの頃から泣き虫で、事あるごとに泣いて、親を困らせたくらいです。
きっと泣きたくないわけではないのですが、涙が全く出ないのです。
でも、夫のこと以外では、悲しくても、感動しても、笑いすぎても、泣くことができます。
たとえ、いつか命に代えることがあっても、今は、夫の残してくれた宝物の、愛する我が子達を、命を懸けて育てていかなければならないと思いました。
それ以外のことは何も考えられず、唯々必死だったのです。
それが私の生きる糧であり、最大の幸せでした。
そのため、自分の心も、自分の体も、自分自身で、どこかに捨ててしまいました。
そして、一周忌の法要の時、一年分の涙を、私の体以外のどこかに貯涙していたかのように、涙が止まりませんでした。
その時、自分は一年間、精一杯頑張ってきたけれど、それと同時に、精一杯我慢してきたのだと、初めて気付きました。
そして、この30年程の間で、夫を思い出し、悲しくて泣いたのは、そのたった一日です。
決して、悲しくないわけではありません。
決して 夫を愛していなかったわけでもありません。
今でも夫を心から愛しています。
でも、あまりにも我慢をし過ぎたので、心が涙を封じ込めてしまったのだと思います。
だからこそ、私のように、ストレスから数々の病気にならないように、皆さんには、決して我慢をせず、精一杯、悲しい時には、泣きたいだけ、きちんと、涙を流してほしいです。
涙は、心の痛みを少しずつ剥がし、かさぶたを作る助けをする、素晴らしい役割だと思います。
男の子だから、男の人だからと、決して我慢をしてはいけないと思います。
それが、辛い中でも、心と体を守る一つの方法だと思うからです。
心が強くて泣けないと、いつか、きっと体が悲鳴を上げます。
決して、私の間違いを繰り返さないでください。
私は、自分のしたことに後悔はしていませんが、間違いではありました。
後悔しないことと、間違いは、異なると思います。
後悔は自分自身の視点で、間違いは、人も含めた視点なのではないでしょうか。
たとえ足りないところが多くあったとしても、自分なりに精一杯子育てをしてきたことには、後悔はありません。
ですが、精一杯頑張ることにより、自分の心も、自分の体も、大切にできなかったことは、最大の間違いです。
我が子達のためと思って生きてきましたが、今なお病気により、時に入院もして心配をかけています。
これらは、私が後悔しないとはいえ、間違ったことで起きている現実です。
自分の身体は、自分でしか守れないのです。
色々な悩みを抱えた多くの人を見てきました。
心が傷つき、そして体が傷つくのです。
もう誰一人として、私と同じ思いをしてほしくありません。
逃れることのできない悲しみ以外で、傷ついてほしくありません。
私のお伝えしていることは、特別なことではなく、本来は当たり前のことです。
でも、絶望の淵に落ちてしまった時は、冷静に、そして客観的になることは、非常に困難です。
普段の精神状態の自分で無くなるからこそ、絶望の淵に落ちてしまうのです。
残念ながら、絶望感、罪悪感、苦しみ、悲しみが、完全に消え去る日が、必ず来るとは限りません。
それでも、決して、自分で自分を終わりにしないでください。
少しずつ、素敵な思い出が、心に逢いにきてくれます。
時間はかかるかもしれませんが・・・。
愛する人がいたということ。
愛してもらった人がいたということ。
それは、とても幸せなことです。
色々なことが起こる、今の世の中ですが、今日も生きているということ、代わり映えのしない平凡な日常が、本当はどれ程幸せなことか、そして、生死に関わらず、人の想いは、伝えること、繋げることができると、私は心から信じています。
今なお命懸けで、私が平穏に過ごせる日常を支えてくださっている全ての方に、心から感謝を申し上げます。
世界中の人に、平和と幸せが訪れることを、心からお祈りしております。
2020年5月3日
雅(みやび)
皆さん、長い文章を、最後までご高覧いただきまして、ありがとうございました。
心から、御礼を申し上げます。
皆さんの、御多幸を心よりお祈りしております。
今は大変な世の中ですが、どうぞ皆さん、お身体をおいといくださいね。
それでは、また明日
雅