心美人に変化なし
皆さん いつも雅の遊び字ギャラリーにお越しいただきましてありがとうございます
皆さんにはお変わりなくお過ごしでしょうか
我が家の方では 昨日桜が満開でした
自宅から見えるお山の桜も 濃い桃色になり 筆で書いたかのように モコモコとそれぞれの木のお花の塊がはっきりと分かり 満開であることが遠いながらも感じられました
皆さんはもう桜にお出逢いされましたでしょうか
昨年は 4ヶ月間のお籠もり期間中が桜の季節だったので お山の桜を眺めていましたが 今年は目の前で愛でることができ とても嬉しかったです
毎年桜を見ることが当たり前になっていたので 決して当たり前でないということを経験し 有り難く幸せな気持ちになり 桜が例年以上に美しく感じました
昨日 午前と午後 同じ桜の木を見たのですが ふと思うところがありました
午前は 木を見上げ 桜の花を見たのですが
午後は 見上げる桜 舞い散る桜 舞い降りた桜
と 三種類の桜の花や 花びらを見ました
6時間程の違いがあり 午前より午後は風があるという状況でした
桜は 一日単位ではなく 時間単位で刻々と姿を変えるものだと改めて気付きました
当たり前のことで分かっているはずなのに 今までは 毎年桜を見ることが当たり前だったので
「もうすぐ咲きそう!」
「もう咲いてる!」
「もう満開やぁ!」
「もう散りそう!」
「もう散ったんやぁ!」
と 桜にときめきと感動があっても
「もう・・・」
と変化を追いかけているようで 今年ほど感慨深く感じていなかったと思います
しいて例えるなら
午前の桜は 木で咲いている若々しい子どもの桜
午後の桜は 色々と経験し成熟した大人の桜
というところでしょうか
午前は見上げるだけでしたが
午後は 桜舞い散る中に私がいて まるで少女漫画のヒロイン???のようでした
少女でなく おばちゃんであるところは 少女漫画にお詫びをしなくてはならないですが・・・
ハハハ~
舞い散る桜は ひらひらと舞い 地面に落ちたり 川面に落ちてゆきます
そっと川に落ちた桜が 水面を漂いゆっくりと流れてゆきます
なんとも風情のあること
そして
ちょっと不思議な気持ちになりました
もし 歩道に一輪のお花が落ちていたとします
そうすると
その近くを歩く時は 間違いなく そのお花を踏むことなく避けて歩きます
万一踏んでしまったら たとえそれがお花屋さんのお花ではなく 野の花であっても罪悪感に苛まれそうですが 桜の花びらはそのような気持ちになったことはありません
道いっぱいに桜の絨毯となれば 避けて通れないということになりますが
そこまででなくても 桜の花びらは 何故か踏んでも罪悪感に苛まれたり 可愛そうという気持ちにはなりません
このように思うのは私だけでしょうか
桜の花びらを好んで踏んでいるというわけではありませんが 桜の絨毯のようにその上を歩くことも 桜を愛でるシーンのひとつでもあるように感じます
桜の見頃は本当に短いですが 儚くとも そのエピソードはとても美しいものであるようにも思えます
桜の季節が近づくと 寒く厳しい冬が終わり 春がやって来るというワクワク感があり
花が咲くと 一気に明るい気持ちとなり
桜舞い散る中に立つと なかなか感じられない別世界となり
桜の絨毯の上を歩き
水面に浮かぶ桜を目で追う
という 桜を愛でるというのは 本来木に咲いている花を指して言う言葉かもしれませんが
私は 地面に落ちても 水面に浮かんでも 桜は素敵で どの場面の桜も愛でるという言葉を使ってもいいのではないかと思っています
桜の花の命があるのは 木で咲いている時だけで 木から離れ 花吹雪になったり 水面に浮ぶ時には 命を全うした後です
ですが
ちょっと悲しい表現ではありますが 桜の花は
<死してなお美しい>
と言えばいいのでしょうか
一年に一回 人の心を捉え 癒やし 儚さや美しさや感動を与え 又一年先を待つという 織姫と彦星を思い 七夕は晴れて天の川が掛かってほしいと願う気持ちに少し似ているかもしれません
その短さに 儚くとも美しさを感じているのかもしれません
来年も 素敵な桜とのお出逢いがありますように 一日も早く平穏な日々になることを願ってやみません
それでは
今日の作品です
顔美人は変化あり
心美人に変化なし
ですが・・・
今日の作品は 文章だけ読むと ちょっと問題作のようにも思いますが・・・
誰しも一年一年 年を重ね どんなに若く見える人でも 永遠に二十歳の容姿でいることは難しいという意味です
それが当たり前で
「この皺さえなければ・・・」
「このシミさえなければ・・・」
と思うのが女心ではありますが
それが年を重ねるということで
顔や体というのは 年と共に変化があるのが当たり前です
不老不死でも無い限り 永遠の若さを手に入れることは難しいことです
ですが
心というのは どんなに年を重ねても 容姿とは全く別のものです
大人になると 身も心も成熟し ずるいことも覚え 純粋な心や 綺麗事ばかりでは済まないというのも事実ですが その人の根幹にある 優しさや思いやり 温かい心の部分は 子どもの頃の純粋さを失うのとは少し違い 容姿ほど大きな変化がないのではないかと思います
勿論 生きていく過程で色々な困難に巡り合うと 心も変化するものではあると思います
ですが
苦労をした人が皆 自分が苦労をしたから 人も苦労すればいいと思うわけではありません
むしろ
自分が苦労をしたからこそ 人に優しくできる人もたくさんいます
それこそが ただならぬ苦労をした甲斐があるというものではないかと思います
話は変わりますが
先日 ビルの中にある病院に行ったのですが
同じビルに塾があり 私が階段を上がって行くと たぶん高校生と思われる女の子が二人 階段を降りて来ました
二人は並んで降りてきたのですが 私とすれ違うだいぶ手前で一列になり 私とすれ違う時 二人が声を揃えるかのように
「すみません」
と言ってくれました
私も
「すみません」
と言ってすれ違いました
私が通りにくかったわけでもなく 無言ですれ違ってもなんら普通のことです
ですが
二人の女の子が
「すみません」
と言ってくれたことが嬉しく とても素敵なことに思えました
それから病院に入って待っていると
お母さんと小学生の女の子がやって来ました
待合の席が二つ空いていて 座ることはできるのですが 席は離れています
すると
若い女の子が すっと立って席を移動し お母さんと女の子が隣同士に座れるようにしてあげました
隣同士に座れるようにしてあげられるのは その若い女の子の席だけでした
その優しさと心遣いに私は感動したのですが その感動を更に高めたのは
お母さんと女の子がまだ受付にいて 待合の席に背中を向けている間に さりげなく席を移動したことです
お母さんと女の子はそのことには当然気付かずに席に着きました
待合で待っていた他の方が 若い女の子の この素敵な行動に気付いたかどうかは分かりませんが 私は感銘し 心の中で最大限の拍手を贈りました
これらの言動や行動は
一朝一夕にできることではなく
きっと
素敵な親御さんの背中を見て成長し
何より 女の子達の日々の努力の賜だと思います
私は 若い人の素敵な言動や行動を見る度 毎回思い出す言葉があります
それは
「最近の若い者は!」
と言う言葉です
この言葉に続くのは
「なっとらん!」
が定番ではないでしょうか
私はこの
「最近の若い者は!」
と言う言葉を聞く度に
?マークが
頭の上に????????
と いっぱい出現します
私の子どもの頃には
親の世代が言い
親が若い頃は
祖父母の世代が言い
そして今
私達が親の世代になって
子の世代に言うという
昔から どの時代も脈々と続いてきた言葉ではないかと思います
ですが
私が思うのは
「最近の若い人がなっとらん!」
のではなく
若かろうが 年を重ねていようが
年齢に関係なく
「なっとらん人が なっとらん!」
なのだと思っています
そして
「最近の若い者は!」
の最近のという言葉にも
?マークが
頭の上に????????
と またまたいっぱい出現します
最近ということは
昔の若者は
「なっとらん!」
ではなく
「なっとったん!」
でしょうか?
でも
いつの時代も脈々と言い続けてきた言葉では???
自分が言われてきたことはすっかり忘れて言うのでしょうかね?
前記した
階段ですれ違った 二人の高校生の女の子も
待合室で さりげなく席を替わってあげた 若い女の子も
最近の若者には含まれない 稀な若い人なのでしょうかね
私はそんなことはないと思います
若くても 素敵な言動や行動ができる人もいれば
年を重ねていても そうでない人もいます
今日の作品の
顔美人は変化あり
心美人に変化なし
ですが
私が出逢った素敵な女の子達は みんな可愛らしいお顔でした
これから先 まだまだ若い時を過ごす人生ですが
私くらい年を重ね 今のような若さや美しさから変化があったとしても 既に持ち合わせている美しい心には どう考えても変化があるようには思えません
悪い時に使われる
「人の性格はそうそう変えられるものではない」
と言う言葉ですが
性格はそうそう変えられないのであるならば
今若い 可愛い女の子達の性格も 素敵なまま変わらないということでしょう
いやいや
もっともっと成熟して
益々 素敵には変わっていくはずよね♥
なんだか矛盾しているけれど
まぁ良しとしてくださいな
皆さんにとって
素敵な一週間でありますように
それでは
また日曜日にお逢いしましょう
雅
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